山陰地方で実験的な作品を作り続けた芸術写真家

text: 河内 タカ

2020.02.19

鳥取出身の写真家といえば、おそらくほとんどの人が砂丘の家族写真で知られる植田正治の名前を挙げるのではないでしょうか。その植田が「自分にとって神様のような存在であった」と慕い尊敬していたのが塩谷定好という鳥取生まれの一人の写真家であり、大正末期から昭和初期にかけて日本独自の発展を遂げた芸術写真において、その完成度の高さもあり、まさに王道を行くものでした。

日本海に面する港町の裕福な廻船問屋に生まれた塩谷は、絵画的な写真表現を目指した欧米のピクトリアリズムの影響を強く受け、山陰地方の風景や子供たちや静物などをソフトフォーカスの画面でとらえました。そして写真雑誌での掲載を通じて、当時の若い写真家たちに大きな影響を与えていったわけです。塩谷のことは近年までそれほど知られることのなかったものの、どこか夢の中の光景を思わせる作風が国内外で取り上げられる機会が多くなり、近年さらに評価が高まっていくことになったのです。

塩谷の代表作として挙げられるのが、茅葺き屋根の民家を撮った『村の鳥瞰』、毎日眺めていた山陰の海をテーマにした『破船』や『竜巻』、そして『小坊主』や波打ち際で竹馬に興じる子供たちの写真、さらに籠に盛られた果物や魚などの静物写真なのですが、これらの作品がほぼすべて郷里赤碕で撮られていたという点にも、近隣の境港を拠点にしていた植田との類似点です。

『生誕120年芸術写真の神様 塩谷定好とその時代』 今井出版刊
鳥取県立博物館で行われた企画展の図録
『夢の翳 塩谷定好の写真 1899−1988』 求龍堂刊
遺族の手で保管されてきた状態のいいプリントから選りすぐったベストセレクション

「ベス単」と呼ばれていたコダック社の小型カメラを愛用していたことで知られる塩谷は、レンズフードを外すことで輪郭がソフトになる技法で撮影し、引き伸ばしの際に印画紙を歪める「ディフォメーション」というマニアックな技法によって、あたかも水平線がグニャリと曲がったような奇抜な風景作品を生み出しました。さらに「雑巾掛け」と呼ばれる絵の具を使ってぼかしていく絵画的なやり方や、暗い部分のグラデーションにより深みを与える「描き起こし」を使うなど、実験性に富んだ技法で制作を行っていたのです。

シュールな絵のようでありながらやはり写真ならではの塩谷の表現方法は、さまざまな技法やスタイルが入り乱れる現代の写真を見慣れた目でも驚かされるばかりか、「ベス単派」と呼ばれていた塩谷とその仲間たちがこのような実験的な写真を生み出していた頃、欧米ではまさにバウハウスを中心とした新興写真が現れていて、ほぼ同時期、またはそれよりも早くそのような前衛的な作品を作り上げていたのは驚くべきことです。

塩谷が実験的ともいえる撮影やプリント作業を行っていた背景には、自身の記憶の中にある普遍的な情景を表現するために、カメラを通した目と人間の眼とのギャップを埋めようとした結果であったとも言われていますが、ともかくそのような飽くなき探求心と実験精神があったからこそ、撮られてから約1世紀という年月が経過しているにもかかわらず、デジカメやスマホ写真が溢れる今の時代においても多くのアイデアやヒントを提示してくれるのではないかと思うのです。

塩谷 定好

1899年に鳥取県赤碕に生まれる。もともと画家志望であったが、13 歳の時に父親からイーストマン・コダック社の「ヴェスト・ポケット・コダック」を与えられ写真に出会う。翌年1913年に鳥取で芸術写真の愛好家たちが集う「写真クラブ」を結成、6年後には会員 88名で「ベスト倶楽部」を創設。『アサヒカメラ』『カメラ』などの写真雑誌に入選を重ねたことで塩谷の名が全国に知られていく。終生山陰の風景や人物や静物などを独特のソフトフォーカスでとらえ芸術写真を追求し続けた後、1988年に89 歳で赤碕にて生涯を終えた。

河内 タカ

高校卒業後、サンフランシスコのアートカレッジへ留学し、卒業後はニューヨークに拠点を移し、現代アートや写真のキュレーションや写真集の編集を数多く手がける。長年にわたった米国生活の後、2011年1月に帰国。2016年には自身の体験を通したアートや写真のことを綴った著書『アートの入り口』(太田出版)を刊行。2017年1月より京都便利堂のギャラリーオフィス東京を拠点にして、写真の古典技法であるコロタイプの普及を目指した海外事業部に籍を置き、ソール・ライターやラルティーグのなどのポートフォリオなどを制作した。最新刊として『芸術家たち 建築とデザインの巨匠 編』(アカツキプレス)がある。

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