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フランスの社会学者・哲学者ピエール・ブルデューは、『写真論 その社会的効用』のなかで、人はなぜ写真を撮り、眺めるのかという問いに、
「時間に対する保護、他者との意思疎通と感情の表現、自己自身の実在化、社会的威信、娯楽あるいは気晴らし」
という5つを挙げて答えている。
なるほど。写真家でもなくプロでもない私は、なぜ写真を撮るのかと訊かれても、「自己自身の実在化、社会的威信」というものにはいまひとつ心当たりがないが、「他者との意思疎通」には少し期待しているのかもしれない。
とはいえ、写真を見せて解説を加える気もない。写真は写真としてそこにある。それをくどくど説明しても、写っているんだからしょうがない、という気もする。
赤瀬川原平は、写真の基本は「報道」と語っている。
ここにこれがあった、わたしは記録した。事象を伝えることが「報道」である。それ以上でもそれ以下でもない。
だから、写真を説明するのは、まぁ、ひらたくいうと、やぼである。説明ならまだいい。写真コンテストなんかで見る、自分の写真につけた題名の恥ずかしさ、あれはなんだ。
雨に濡れた花に「雨に打たれて」と題名がついている。見ればわかるだろう。家族で食事をしている写真に「だんらん」…大丈夫か。いや、ひょっとしてこれは団欒ではない瞬間の写真ではないかと逆に勘ぐってしまう。
短い間に、ニューヨークシティ、岩手県、そしてホーチミンシティを巡った。季節もそれぞれだった。
今回、3つの場所で撮った写真をランダムに並べてある。特段、なんの意図もない。
目についたものやひとに、レンズを向けただけの記録である。なんらかの芸術の高みを目指しているものでもなく、自身の技術や、撮影機材の素晴らしさについて誇るものでもない。
そんなことは見ればわかる。ただ、歩きながら撮っただけだ。
赤瀬川原平がいうところの「報道」に近い。ただ、報道といってもジャーナリズムとして「広く公表・伝達する言論活動」ではなく、読んで字のごとく、たまたまこれを見てくれた人間に「知らせる」ということに過ぎない。
ただ、50年生きてきて、よく考えることのひとつに、「どんなコミュニケーションが私にとって望ましいか」という問題がある。
人は自分について語ろうとする。知ってもらおうとする。また、相手のことを知ろうとする。質問を投げかけたがる。
しかし、それは本当に必要な行為なのだろうか、だったのだろうか、という思いがある。
私も、相手も、お互いの特徴について、過去について、考え方について、行動基準について、開示し、探り合う必要はあるのかという疑念だ。
ピエール・ブルデューがいう「他者との意思疎通」に「写真」が有用なのは、そこに「外部」があるからだ。
私と、他者の、外にあるなにか、いま、共に眺めるなにかが、私の自己紹介でもなく、あなたの身の上話でもなくそこにある。
それが、私と他者との「距離」と「交通」をつくる。
外にあることを写したものにかぎらない。セルフポートレートだって、報道なのだ。
私は、私のいい顔を見せたくて自分の写真を撮り、晒すわけではない。この連載のタイトル写真も、ぼやっとした中年男性が写っているだけで、私になんの得もない。しかし、やぼを承知で言い添えると、これはロバート・メイプルソープの有名な写真の、わりとアホらしいパロディである。ああ、やっぱり説明するとやぼになってしまった。
だが、これを掲げることで、ときに「これは、アレですね」「これは、アレです」というやりとりが発生してもいいし、しなくてもいい。
いま、私とあなたの間に、これらの風景がある。
私は、それを挟んでいる「状態」をつくろうとしているのである。
写されたものだけを見る。同じ方向を見る。なかなかむつかしいことだ。
これらの写真を撮影した、この2020年、世界は大きな災厄に包まれている。私が行く先には、マスクをした人々、握手や抱擁を避けなければならない人々、そして同じようにする私がいた。だが、私はそれを記録しなかった。私の「報道」は、私が残したい「時間に対する保護」だからである。
出典:
ピエール・ブルデュー監修、山縣煕・山縣直子訳『写真論 その社会的効用』(法政大学出版局)
赤瀬川原平『鵜の目 鷹の目』(日本カメラ社)
田中 泰延
1969年大阪生まれ。株式会社 電通でコピーライターとして24年間勤務ののち、2016年に退職。「青年失業家」「写真者」を名乗り活動を始める。2019年、初の著書『読みたいことを、書けばいい。』(ダイヤモンド社)を上梓。Twitter:@hironobutnk