SIGMA meets SEEKERS vol.10

Winter/2017

[その先を追う表現者たち]

Akira Ochi

たった1台のピアノの音から
歴史も常識も、変えることができる

  • 越智 晃さんピアノ調律師

限られた老舗大手メーカーがシェアを握るピアノ市場において、新興ながら、理想の音を工学的なアプローチで実現し、常に最良を求めて進化し続ける「現代のメーカー」、Fazioli。
その音づくりを共にする調律師、越智晃さんもまた、たぎる情熱と冷静な耳で、完成なき世界に挑んでいます。

text : SEIN編集部 photo : Kitchen Minoru
lens : SIGMA 35mm F1.4 DG HSM | Art / SIGMA 50mm F1.4 DG HSM | Art

世界の耳目を集める新興ピアノメーカー

スタインウェイ&サンズ、ベヒシュタイン、ベーゼンドルファー。これが、世界の御三家と称されるピアノメーカーです。いずれも150年を超える歴史を持つ名声高きメーカーであり、さらに、日本のヤマハやカワイも、生産量では世界一、二を競う大ブランドとなっています。楽器の王様といわれるほど多様な音楽表現を可能にするピアノは、西洋音楽の歴史を培ってきた存在の一つ。だからこそメーカーにおいても歴史と伝統が重んじられるわけですが、一方で、昨今のピアノ市場は縮小傾向にあり、とくにグランドピアノの販売台数は減少の一途といわれています。
そんな中で気炎を吐いているのが、イタリアの新興ピアノメーカー「Fazioli(ファツィオリ)」です。会社設立は1981年と、メーカーとしては非常に若く、年間生産台数もわずか130台程度。しかし、すでに数々の国際コンクールでピアニストが公式に使用するピアノとして指名を受けるなど、その評価は短期間で急速な高まりを見せています。とくに、2010年のショパンコンクールでは、公式ピアノとしてFazioliを選んだ4人のコンテスタントのうち2人が入賞するという快挙を果たし、大きな話題となりました。
「創業者であるパオロ・ファツィオリには自分が理想とする音があります。その音を実現するための独自の楽器をつくりたい、だから他のピアノメーカーの真似は一切しないという、明確な信念を持っています」
そう語るのは、Fazioliの日本総代理店であるファツィオリジャパンの越智晃さんです。彼はFazioliの創業者パオロ・ファツィオリから全幅の信頼を得ている調律師であり、国内の顧客はもちろん、国際コンクールで使用される同社のピアノの調律も担っています。

工学的アプローチによる「生きたメーカー」

「150年もの歴史を持つ老舗メーカーのピアノは、すべてコンピュータなどない時代に設計・製造されているため、『結果としてできた音』なんですよ。でも、Fazioliは現代のメーカーですから、ある程度コンピュータでシミュレーションし、目指すべき音をどう実現するか、工学的にアプローチできる。そこが大きな違いだと思います。この世界はどうしても、『歴史のあるものにより価値を置く』という面がありますが、Fazioliの価値観は異なりますし、そもそも『完成』という考え方がないので、パオロからも現場の職人さんからも、こうしたらもっといい音になるはず、とどんどん意見が出てくる。そういった意味で『生きている工場、生きているメーカー』だと思います」
越智さんとFazioliの出会いは、今から10年ほど前。実は当時越智さんは、別の老舗ピアノメーカーに勤務する調律師でした。が、ある時、仕事仲間であり、後にファツィオリジャパンの代表となるアレック・ワイル氏に誘われ、軽い気持ちでイタリア北部にある同社の工房に赴いたそうです。
「厚かましくも、メインの楽器であるコンサートグランドを調律させてほしいと言ってみたら、あっさり1台与えてくれたんですよ。老舗メーカーであれば絶対アジア人にフルコンサートなんて扱わせないので、まずそこで驚いて。次に、実際に作業して1オクターブ仕上げてみた時、出てくる音にハッとさせられたんです。『あれ、こんな音、うちのピアノじゃ出てこないぞ』と」

価値観を変えた衝撃の音質

越智さんは、ピアノを習っていた小学生の頃に調律師という職業を知り、「自分でもやってみたい!」とお小遣いをためて道具を買ったという逸話の持ち主。以来その夢を叶えるべく努力を積み、音大の調律専科修了後すぐに老舗メーカーの仕事に就きました。当然、彼の中では、そのメーカーの音色がすべての基準だったのです。
「僕が頭のてっぺんから爪先まで信じ切っていた老舗の音を越えるような楽器が、自分の知らないうちに生まれていた。それは大きなショックであり、人生の中で重要な一瞬でした。夢中になって1台仕上げて、パオロに試弾してもらったら、すごく喜んでくれたんです。そして、5年前に製造した別のピアノの音を聴かせてくれたのですが、そのピアノのほうが音の伸びが良く、響きが長く残ったんですね。その音を、『これが5年という時がつくった音だよ』と彼は言った。あぁ、この人は本当に楽器を分かっている人だ、絶対にピアノの歴史に残る人だと確信して、一緒に音づくりがしたいと、痛烈に思いました」
もちろん、大手の老舗メーカーを辞めるには、かなりの葛藤があったと越智さんは言います。
「悩みに悩んで、『じゃあ自分はなんで調律師になったのか』と原点に立ち戻った時に、自分はピアノが好きで調律師になりたかったんだ、決して老舗のブランドが好きだったわけじゃないということに気づいたんです。それだったら、調律師として一番面白く仕事ができるのは、絶対Fazioliだと。その選択は全く間違っていませんでした」

ファツィオリのピアノは、すべて創業者パオロ・ファツィオリ氏(写真)の試弾を経て出荷される。

技術と情熱の凝縮

Fazioliでは、40名にも満たない熟練した職人が、すべて手作業でピアノの製作に取り組んでいます。1台のピアノに費やす製作期間は、なんと約3年。完成したピアノは、ピアニストでもあるパオロ・ファツィオリ自身が1台1台試弾し、納得したものだけを出荷しているといいます。
「こんなつくり方をしているメーカーは、ほぼないですよね。他はみんな合理化を進めていて、一つひとつの工程も分刻み、小さなサイズのピアノは調整の時間さえ圧縮されてしまう。Fazioliの場合、1台の調整に3日くらいかけることもありますから。もちろん、それは生産台数が限られているからこそですし、老舗からすれば、たった100台のメーカーなんて脅威とも思わないでしょう。でも、たった100台でも、その1台1台が正しく評価されたら、常識や既成概念も、市場構造すらもひっくり返す可能性があると僕は思う。どこの真似もせず、Fazioliが信じる音を常に響かせられるよう、1台1台手をかけていけば、分かるお客様は絶対分かって下さるし、必ずシェアはとれる。その手応えを、確かに感じ始めています」

楽器本来の音と、自らの理想を追求

ピアノの調律において常に心がけていること。それは、「ピアノに我を入れない」、つまり、自分が理想とする音をエゴイスティックに求めないことだと、越智さんは言います。
「調律師って『これが自分の音だ』と、すごく我を入れてしまいがちなんですけど、僕はそれを絶対やりたくありません。そのピアノ自身が、一番ストレスなく、気持ち良く響くようにしてあげたい。楽器というのは、作業すればどんどん反応してくるし、自分が思っている以上の音が出てくる楽しみもある。でも、自分の音をつくろうと思ってしまうと絶対うまくいかない。いかに、楽器自身に思うままの音を奏でさせてあげられるかが、調律師の技術だと思っていますし、それだけを大事にして引き出せた音が『Fazioliの音』だと考えています」
今後は日本のコンサートホールにもFazioliのピアノを導入してもらい、もっと身近に弾いたり聴いたりする機会を増やしたい、と越智さん。と同時に、日本人の調律師として、誇りを持って世界で仕事をしていきたいとも語ります。
「調律師は、音づくりからメカニック的な技術まで、オールマイティーさを求められます。その点では、やっぱり日本人の持つ細やかさが大きな強みになるんですよ。これまで音楽界には人種の壁というものが多少ありましたが、僕は今、1台のピアノと何日も向かい合い、日本人としての強みを存分に生かせる、恵まれた環境にいます。もちろん、数々のメーカーが築いてくれたピアノの歴史や伝統があるからこそ、僕はこの仕事に出会えたわけですし、その幸運に感謝しながら、常により良い音を追求し続けていきたい。Fazioliを知ることがなかったら、僕は調律師としてチャレンジをする機会も得られず、もしかしたらピアノを嫌いになっていたかもしれない。今、この時期にFazioliと共に理想を追えることを、幸せに思います」

越智 晃

ピアノ調律師

1972年生まれ。幼い頃に知ったピアノの調律に憧れ、12歳にして小遣いをためて1万円のチューニングハンマーを購入。国立音大調律専科修了後、老舗ピアノメーカーで10年以上勤務した後、Fazioliへ。ショパンコンクールなど国際コンクールでの調律を担う。

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