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第五話|U-AF 55-200mm F4.5を語る

皆様、こんにちは。SIGMA大曽根です。SIGMAの製品開発の歴史やその魅力、時代や市場の背景などをご紹介する連載企画「大曽根、語る。」も、はや第五話となりました。今回は、30年以上にわたってSIGMAの製品開発に関わってきた私が、今だからこそお話しできるエピソードをご紹介します。「SIGMA U-AF 55-200mm F4.5」の開発秘話です。

レンズの中の測距センサ

これまでは主にSIGMAの新製品について語ってきたが、今回は失敗談を一つ披露したいと思う。今回紹介するのは1989年に発売された「SIGMA U-AF 55-200mm F4.5」である。「U-AF」は「Universal Auto Focus」の略で、レンズ鏡筒内に測距センサ、AFモーター、電源を持つレンズのことを指す。

AFレンズの開発に邁進

1985年にMINOLTAが発売したα-7000によって一眼レフカメラはオートフォーカスの時代に突入するのだが、当時、市場は一眼レフのオートフォーカス化にはまだまだ逡巡があった。特にプロやハイアマチュアの間では、「ピントは自分で合わせる」という風潮が強かったと思う。そのような中でもMINOLTAはオートフォーカス一眼に邁進していくのだが、実はもう1社、オートフォーカス化に前のめりな会社があった。それがSIGMAである。

α-7000が発売されると、故山木道広会長の号令の下、即座にその調査を開始。翌年には6本ものα-7000用レンズを発売した。また各カメラメーカーがオートフォーカス一眼に参入するたびに、SIGMAもそれに対応するレンズを開発。1989年には6種類のAFマウント(MINOLTA、Nikon、Canon、PENTAX、KYOCERA、OLYMPUS)を持つまでになっていた。そしてこれらの製品と並行して開発していたのが、このUniversal Auto Focusレンズであった。当時SIGMAが如何にAFというものに対して貪欲であったかがよくわかる。

AFのもう一つの流れ

MINOLTA α-7000が発売される数年前から、既存のマニュアルフォーカス用のレンズマウントのままレンズ側に機能を追加することで、オートフォーカスを実現させたスタディ的な製品がいくつか存在していた。PENTAXのAF ZOOM 35-70mm F2.8やCanonのNew FD35-70mm F4 AF、RICOHのAF RIKENON 50mm F2などがそれに当たる。これらの製品はレンズ内にフォーカス用のモーターや電池などが搭載されており、それがレンズの外観から大きく出っ張っているという特徴的な形状であった。

1985年、COSINAから革新的なAFレンズが発売された。COSINA AF 200mm F3.5である。レンズ内にHoneywell社製の「TCLモジュール」と呼ばれるAF用ラインセンサーとAF用モーター、そしてそれらを駆動させるための電池室(単4電池3本)を持ったレンズで、各MFカメラ用のマウントが用意されていた。つまりこのレンズを付ければMFカメラがAFカメラに早変わりする、というものである。ただしこのAF 200mm F3.5は定価¥88,000とやや高価だったこともあり、ヒット商品とはならなかった。しかしCOSINAは1987年にこのAF 200mm F3.5と同じ機能を持ち、スリムになったAF 75-200mm F4.5を発売、大きなヒットとなった。

この流れを受け、当時AFレンズの開発に積極的だったSIGMAは、鏡筒内部にAF機能を備えたレンズの開発に着手する。

左からCOSINA AF 200mm F3.5、SIGMA U-AF 55-200mm F4.5、COSINA AF 75-200mm F4.5

丸いレンズをつくる

SIGMAは早速Honeywell社とライセンス契約を結んでTCLモジュールを入手し、レンズの開発に着手した。レンズ構成は、オーソドックスな「バリエター、コンペンセーター方式」の古典的4群ズームが採用された。そして、その後半の固定群の中にビームスプリッタと呼ばれる45度反射のハーフミラーを配置して、レンズを通過する光の約30%をこのハーフミラーで反射させ、AF用の光学系を経由してTCLモジュールに導き測距する、という構成である(図1参照)。まるでAF一眼レフカメラ内のミラーと測距ユニットがそのままレンズに入ったような雰囲気だ。

図1

当初は「58-200mm F4.5」というスペックで設計が進められ、1988年のPMA(アメリカのカメラショー)に試作品を持ち込んだ。しかしその後「Wide側の焦点距離をもっと標準レンズ(50mm)に近づけたい」「過去、丸くないレンズが売れたことはない。しっかり丸く(=円筒形状に)するように」という故山木道広会長の要望を受け、製品設計段階で55-200mm F4.5というスペックに光学設計を変更し、さらにスリム化のために鏡筒設計もやり直すことにした。この設計変更を担当したのが、入社間もない頃の私であった。

何もかもが初めて

私がまず行った設計変更は、ズームカムのレイアウトの変更である。ズーム時に回転する部品(カム筒など)をなるべく内側に配置し、動かない外側の部品には大穴を開け、そこにAF測距ユニットを潜り込ませた。そしてAF測距用の光学系の位置調整機構を簡略化して小さくした。また、外観部品の肉厚についても、金型部門との協力によって強度を保ちつつ薄くすることに成功し、COSINA製のAF 75-200mm F4.5と比べてスリムな、ほぼ円筒形状のレンズ鏡筒を達成した。

しかしそれ以外は難問山積で、大きな電装基板の配置やAF-MFのクラッチ、AF作動ボタンの取り付け方法、ビームスプリッタの位置精度の確保などに大いに悩んだ。単4電池の寸法や形状の規格が甘く、意外なほど形状にバリエーションがあることを知ったのもこの時である。このため電池室の設計にはほとほと苦労させられた。

そして、最も苦労したのがこのレンズの生産用の調整装置である。ラインセンサーの測距点が光軸の中心になるよう微調整できる構造はレンズ内に設けたが、実際にそれを生産ライン上で調整する装置がSIGMAにはなかった。また、ピントの位置も、カメラ・レンズ・測距光学系すべてを合致させる調整工程が必要だった。さらに、オシロスコープを生産ラインで使うわけにはいかないので、測距センサの出力をパソコンで見られるようにする装置も作らなければならなかった。その結果、レンズ1本の開発としては考えられない規模の多大な投資が生じたのである。

時代はAF一眼レフ

これら多くの努力と苦悩の末、U-AF 55-200mm F4.5は1989年になんとか発売に漕ぎ着ける。しかし悲しいかな、販売面では全く成功しなかった。
U-AF 55-200mm F4.5が世に出た1989年、そのとき市場はすでにAF一眼レフを中心に動いていたのである。その背景には、AF性能が一気に向上したEOS 650/620やMINOLTA α-7700iの登場、同時期にはMINOLTA用AF交換レンズのラインナップが30本を超えるなど、AF一眼レフ市場はα-7000が登場したオートフォーカス黎明期では考えられなかったほどの大きな盛り上がりを見せていた。もはやMFカメラにAF用レンズを買い足すような市場の空気ではなく、U-AF 55-200mm F4.5はその姿をひっそりと消したのである。

U-AFが遺したもの

U-AF 55-200mm F4.5は失敗に終わった。細かな計算はしていないが、開発費は全く償却できていないだろう。特に測距センサであるTCLモジュールはこの製品以外には使われなかったので、Honeywell社とのライセンス契約費は全額このレンズで償却しなければならなかったはずだ。

しかし、このレンズはSIGMAに「ラインセンサーによる位相差AF」という技術を遺した。ソフトウェアや電子の技術者たちはラインセンサーの出力波形を元にしたAF制御というものを学べたし、機構設計者はAFユニットのX、Y、Z調整の方法やロジックを知ることができた。そして工場ではその調整工程が稼働し、生産技術部や組立部のメンバーがそれに携わったのである。私自身もこのレンズによって、AFに関する多くの知識や疑問、課題、仮説を得ることができた。

商業的には失敗に終わったU-AF 55-200mm F4.5は、しかし結果としてSIGMAに多くの技術と経験を遺してくれたのである。

Yasuhiro Ohsone

株式会社シグマ 商品企画部長

1987年入社。光学、メカともに開発の現場を歴任し、他社との協業も数多く担当。2013年より現職。

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