Winter/2017

[ 特別寄稿 ] ワタナベアニ

ある写真家の写真論

写真とは、その人にとっての必然、その人だけの物語を表現すること。撮影の環境も道具も、その具現化に最適なものを追求すればよい。アートディレクターとして多くの写真をディレクションしてきた経験を持ち、写真家として、みずからの表現の意味、自らの撮影のスタイルを追求し続けているワタナベアニさんに、写真の撮り手として大事にしていることを綴っていただきました。

photo & text : Ani Watanabe

ふたつとない写真

写真を撮っていると、何度も同じ場所に帰ってくるのがわかる。新しいと思う方法で撮ってみると、昔似たようなやり方をしたことがあると思い出す。けれど平面では同じ座標でも、高さがほんの少しだけ上がっている。その薄っぺらいスパイラルを辿り、繰り返す毎日。

写真は頭の中にあるビジョンを描き出す絵や彫刻とは違い、誰もが目に見えている対象をそのままスキャンするだけ。ただ、そこにある同じモノを撮れば同じ写真になるというのは大きな誤解で、言い方を変えると解釈の芸術だから、咲いている「一輪の薔薇」の前に写真家がいれば、人数分だけ解釈の違う薔薇の写真ができあがる。ポートレートが薔薇を撮るのと違ってもっと複雑なのは、人がカメラの前で見せる表情はコンディションや、目の前にいる写真家によって変化するからだと思っている。

「感情のトリガー」

初対面のモデルを撮るとき、いつも与えられた時間の半分以上使って雑談をするようにしている。リラックスするとか、仲良くなるという意味ではなく、この人は楽しいことを話すときにこういう顔をする、悲しいときはこんな表情をする、というその全部の種類をじっと観察するため。「いつ撮り始めるんだろうね」と、モデルもスタジオマンも自分もが思い始めた頃にカメラを持つ。今まで観察した表情の中で、もうどんな顔を撮るかは決まっているから実際にシャッターを切るのは数分。さっきした話題の中から、撮りたい顔をするトリガーを使う。感情と表情はワンセットなので、自分ではこの誘導する引き金のことを「感情のトリガー」と呼んでいる。

「その人らしさ」とは何か

自分が理想とするポートレートは、その人が一生のうちで一番長く見せている顔が写っていることで、簡単にナチュラルな顔、というのともちょっと違う。家族が家の中でよく見ている顔、というのが一番近いと思っている。撮った人から「写真を見せたら親が喜んでいました」と言われるのがとても好きだ。その人の理想の顔を知る人に褒められるのは何よりもうれしい。できるだけナチュラルでシンプルな写真を撮るために、色調はあまりいじらず、レンズもクセのないモノを選ぶ。デジタルカメラの劇的な進化で写真は未知の方向に向かって走り始めていて、誰もが見たことのない目的地へと試行錯誤をしている刺激的な状況だ。

撮る人と撮られる人のセンシビリティを

さっきスキャンという言葉を使ったのは、デジタルカメラは高精度なスキャナーだと思って使っているから。フィルムは物理的なフォーマットによって大きく質感が変わる。135と8×10を使い分けるとき、撮る気持ちさえも変わってくる。それをフラットにしたのがデジタルだと思っている。よく精神論として「フィルムで撮っていたときには緊張感があった」なんていう言葉を聞く。馬鹿なことを言わないで欲しい。デジタルで撮っていても緊張感はあるし、フィルムを使っていた時代にも緊張感のない人はいただろう。

写真の本質はどこまで進化しても変化しても、撮る者と撮られる人とのセンシビリティ以外にはなく、その中間に介在する機械や技術なんてどうでもいい。むしろレンズやカメラがあることを忘れられる方が環境としては上質なのだ。

今目の前にいる人にフォーカスする

「東京デザインウィーク2016」(TDW)で行った写真展では、人物を撮るときの楽しさの中でも「初対面の一瞬」をテーマにした。どの写真も見ず知らずの人と出会った瞬間を記録したいという意図を明確にするために、たいして話もせずに数十秒の3カットほどで撮影を終わらせている。感情と表情の組み合わせを企てる以前の、ぎこちない表情には、互いをよく知る人を撮るのとはまた別の魅力がある。

TDWの展示ブースには福島、パリ、東京で撮った黒バックのポートレートを並べた。東京はホームグラウンド、パリは海外の中では一番ホームに近い場所で、ひとつだけアウェイを入れたかった。そこでSIGMAの会津工場で働く人々を撮らせていただいた。ここ数年続けている黒い布のバックグラウンドは、場所が持っている意味をすべて排除して、人物だけにフォーカスする意味で使っている。三つの都市名を書いている割に、どこで撮ったかは判別しようがない。フランス人らしい人が写っているからパリだろう、というくらい。

リアリティのためのスタンダード

展示会場に来てくれた人々をブースの中で100人以上撮らせていただいた。写真展を見ていたらなぜか客である自分も撮られて、翌日同じ場所に貼り出されてしまうという変な状況なので特に着飾ってきたわけでもなく、化粧もベストコンディションとは言えないだろう人々。何の覚悟もないままに撮られたポートレートは自分にとってどれもリアルで、とても美しかった。

少し専門的な話をすると、福島とTDW会場ではストロボを使った。パリでは屋外の自然光で撮っていたから並べると違和感があるが、それでいい。自然光はパリらしく、人工の光は日本っぽいのかもしれない。そのかわりレンズは一本で統一した。SIGMAの50mm。特殊な焦点距離ではなく、描写も上質ではあるがスタンダード。現場で悩む選択肢を減らしたいときにはベストなレンズで、パリでの撮影にもこの一本しか持って行かなかった。

「写真の技術」

人を撮るときに、撮る側が悩んでいると思われたら撮られる側は不安になるものだ。何度もアングルやレンズを変えたりすれば「よくないのだろうか」と不安になるし単純に飽きてくる。人を撮るときは最初の一瞬、しばらくして意識がシンクロしてきた瞬間、後半のチカラが抜けてきた雰囲気、など、チョイスすべき山場のタイミングがいくつかあり、そのどこを選ぶかに写真家の個性が出る。職業的なモデルはどこを撮ってもそれぞれにコンスタントにいいカットがある。それがプロということなんだけど、撮られることに慣れていない役者や素人などは圧倒的に最初の数カットがいい。写真の技術の多くは撮影テクニックではなく、コミュニケーションにある。それを人との「向き合い方」なんていう流行の言葉で言う人もいるけど、カメラを持ったら正面から向き合うのが当たり前なので、言葉としては適切じゃないと思っている。なぜ言葉にこだわるのかには理由がある。

「言葉」の使われ方

日常的にSNSでアップしている写真にはたくさんの言葉をつけている。写真の説明ではなく、そのときに感じたことを無関係に書く。言葉と写真は並列させると下品になりがちだ。風景写真に安っぽいポエムのような。写真はそれだけで完結しているからそれ以上言葉での説明は要らない。また、言葉の説明のための写真も同様につまらない。取扱説明書の図のようになってしまう。

さてFacebookに写真でもアップしよう、と思うとき、まずその日に撮った写真をパソコンで開く。デジタルの恩恵は「撮った瞬間から写真がそこにある」ということで、だからこそ過去に撮った古い写真を引っ張り出してくることはしない。文字通り時間とともに動いているタイムラインに過去が混ざると興ざめするのだ。

写真を一枚選ぶと、連想するように自然と言葉が出てくる。撮った状況とは何も関係ないんだけど、書きたくなる言葉が見えてくる。インターネットはそれまでテキスト通信だけだった状態から、劇的な進化として「ビジュアルが扱える」という機能を喧伝された。でもよく周りを見渡して欲しい。LINEでもツイッターでもメールでも、我々のコミュニケーションはその多くがいまだに言葉によってなされていることに気づく。

ビジュアル表現で感じるのは、個性的な表現をする人のほとんどが言語感覚に優れていたり、文学性が高いということ。

言語はビジュアルの対義語か

写真さえ良ければ言葉なんて必要ないんだよという言い方は格好いいように見えて、実は逃げていることが多い。その絵が何を意味しているかを説明する必要はないんだけど、どんな言語的理解からその絵ができたのかは責任を持って説明できないといけない。

人間の脳の働き方で言うと、言語的な解釈抜きでビジュアルを作ることは不可能だという。海という言語感覚から自由に海の写真を撮ることは不可能だということだ。明るい、暗い、穏やか、荒々しいなどの言語が海岸で波に向かってシャッターを切るとき、無意識に近いながらも自分の脳の中を駆け巡っている。

表現の根もと

その文学性が写真の情緒に大きく関係していて、つまり、読んでいる本や、観た映画や、演劇や落語の台詞なんかがビジュアルに直結している。だから薔薇の写真を撮るときに、今までどんな薔薇が出てくる物語に触れたかが、ビジュアルを決める。人間を撮るならなおさらで、老人、若い女性、マッチョな男性をフレーミングするときに脳は過去の文学的なデータベースにアクセスしている。

映画をたくさん観ると写真が上手くなるというのが正しいとすれば、それは映画の構図やアングルを学ぶことじゃなく、物語に触れることに他ならない。

 

 

カメラを水平に構える理由

自分のデータベースにあるもの以上の世界を描くことは簡単じゃないから、世界中の驚くべき多くの物語を知る必要があるのだと思っている。

写真と体験と思索が直接結びつくのが旅なので、自分の属していない文化や自然を見ることはとても大切なことだと思う。「カメラは水平に構えるべき」といつも思っている。写真は対象を見下したり崇めたりする姿勢で撮ってはいけないという意味で、その水準器の正確さを維持するためにはつねに自分がいる状況を冷静に見極めることや、自分がいまだ知らない膨大な世界があるのだと感じる謙虚さが欠かせない。

息をするように写真を撮る

ポートレート以外に、いくつものプロジェクトを進行させている。旅で訪れた街を一冊ずつ「GtA」という名前のZINEにしていくものが三号までできた。ありふれた写真を線対称に再構成する「シンメトリー写真」、肉と肉体を合成する「MEAT」など、これからまとめようと思っている写真がどんどんたまっていく。

日々試行錯誤、日々実験。それを飽きずに続けていく。写真を肉体に喩えるときに目が使われるが、自分の場合は呼吸器。だから、写真を撮っていないと死んでしまう。

ワタナベ アニ

1964年横浜生まれ。ライトパブリシティを経て、NINJAFILMS設立。2006年よりアートディレクターから写真家としての活動をスタート。新しい撮影機材はまず自分で購入して使いこなすことをポリシーとし、それぞれの撮影の現場で最も適した機材を選んでいる。撮り手の行為を最も誠実・確実に再現できる機材を選ぶ方法で、写真を撮っている。

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