私は眠らない

藤岡亜弥

写真集『私は眠らない』(赤々舎、2009年)は、藤岡亜弥(1972年- )が2000年から2006年にかけて、東京に生活の拠点を置きながら広島県呉市にある実家に帰省した際に撮り続けた写真を纏めたものです。一連の写真には瀬戸内海を望む山間の風景や、実家の中の様子、家族の姿などが写し取られているのですが、生まれ育った場所や人への愛着や懐かしみというよりも、当て所なく彷徨する感覚が全体を貫いています。タイトルの「私は眠らない」という言葉は、幼い子どもが口にする理不尽なまでに強い意志を連想させるとともに、彷徨いながら心の中で唱えられた呪文のようにも響きます。

藤岡の写真を特徴づける「彷徨」の感覚は、20代後半に1年半台湾で生活し、その後ヨーロッパ各地を放浪した経験も影響しているのでしょう。数々の異国の地を訪ね歩いてきたからこそ、実家やその周辺に身を置きながらも、違和感や戸惑いにも似た感情を抱いていることが写真にも反映されているようです。巻末で藤岡はこう綴っています。「見慣れていたはずの家族をふと疑う瞬間 私が立ち尽くし 何度も何度も出会い直す風景」

写真集の中で頻繁に登場するのが藤岡の母親の姿です。登場するとはいえ、カメラに顔を向けて写っている写真はほとんどなく、後ろ姿や、顔が写らないような角度で撮られていたりするものが多く、手やその仕草に焦点を合わせたものが目につきます。長年美容師として働いてきたという母親の手指は、細く節くれ立っていて、時には赤いマニキュアをほどこしている細長い爪は魔女のような妖婉さを漂わせています。藤岡は母親を間近に捉えたり、距離を置いてその姿を眺めたりすることで、故郷の風景を、生まれて以来ずっとそこで暮らしてきた母親のいる場所として、その姿とのかかわりあいの中で捉えようとしたのかもしれません。

『私は眠らない』(赤々舎、2009年)より © Aya FUJIOKA. all rights reserved.

職業柄よく動かしているであろうその手の仕草は、遠目にも目を惹きつけます。穏やかな瀬戸内海の水面と山の稜線が連なる景色を、シートに後ろ向きに座り込んで眺めている母親の後ろ姿は、電車の車窓の外を流れていく風景を夢中になって眺める幼い子どもの仕草にも重なり、窓ガラスに触れる手は風景と時間の彼方と此方の間を漂いながら、目の前の風景を手元にとどめておきたいという願望を秘めているようにも感じられます。

『私は眠らない』(赤々舎、2009年)より © Aya FUJIOKA. all rights reserved.

小林 美香

東京国立近代美術館客員研究員

国内外で写真に関する講義やワークショップを行う一方、展覧会の企画や雑誌への寄稿など、多方面で活躍。

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