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2018年初夏完成予定
磐梯町・慧日寺「薬師如来坐像復元事業」の現場を訪ねる

SIGMA会津工場の至近に位置する旧跡・慧日寺の本尊、薬師如来坐像の復元事業が大詰めを迎えています。磐梯町、東京藝術大学大学院、そしてSIGMAの産官学連携により3年がかりで取り組んできた一大プロジェクト。ふだん知る機会のない仏像復元の現場のもようをご紹介します。

text: SEIN編集部 / photo:Kitchen Minoru, Hisanori Kojima, SEIN編集部

2018.03.23

慧日寺薬師如来坐像の復元事業

SIGMA唯一の生産拠点・会津工場のある福島県・磐梯町(五十嵐源市町長)では、かねてより「仏都・会津」の復興をめざし、仏教文化・芸術の復興に力を入れてきました。
そうした中で立ち上がったのが、現在、国指定史跡となっている慧日寺跡の金堂に、かつて本尊だった薬師如来坐像を復元して展示するプロジェクトです。2015年(平成27年)より東京藝術大学大学院 美術研究科 文化財保存学専攻 保存修復彫刻研究室(籔内佐斗司教授)に復元作業を委託、2018年初夏の完成に向けて着々と進められています。
 町を挙げての復元事業は、高い専門性と多額の費用を要する大がかりなものですが、藝大大学院研究室の全面協力と地元に拠点を置くSIGMAの寄付とによって、高度な復元計画が現実のものとなりました。

ゼロからのスタート、想像と考証を駆使する

東北随一の名刹でありながら、度重なる戦禍・災害によって完全に失われてしまった慧日寺の薬師如来坐像の復元は、まったく手さぐりでのスタートとなりました。プロジェクト・マネージャーとして作業計画を立て、段取りや進捗管理を行ってきた同研究室の小島久典さん(木造彫刻/保存修復 Ph.D.)はこう言います。
「今回のプロジェクトは、予算や材料の調達などの制約がある中でのベストを、と始まりました。復元の方針と基本計画は籔内先生が策定し、それを我々研究室スタッフが作業計画に落として実務遂行しています」
「当時の情報がほとんど残っていない中では、同時代に主流だった造像技法や時代背景、地域性などを類推する以外に手掛かりはありません。美術史学科の先生方にご教示いただいたり、実際に技法を試して技術的な裏付けをとったりしながら、当時の仏師の思考や感覚を追体験していく、という感じでしょうか」

大径木の一木造だったとされる薬師如来像

仏像の造像技法は、時代背景や地域性によってある程度類推できるそうです。奈良時代の主流は塑像・金銅像・乾漆像が主流でしたが、慧日寺の本尊・薬師如来像は平安前期という時代的背景から見ておそらく一木造だったのではないかと思われます。また、今回の復元で造形の手本の一つとした福島県湯川村勝常寺の薬師如来坐像は、ケヤキの一木造(正確には割矧造わりはぎづくり)ということもあり、地域的にもケヤキの大径木を使っていた可能性が考えられます。当時この地方にはまだまだ『もののけ姫』に出てくる森のような豊かな原生林が残されていたようですが、今日では、一木造が可能な大径木はほとんどなく、あったとしても天然記念物に指定されていて切ることができないのだそうです。

最上質の国産ヒノキを惜しみなく使った「寄木造」

そのため本プロジェクトでは、一時代後の平安後期に完成・一般化し、主流となった「寄木造」を採用。寄木造は「頭体幹部を量的にも構造的にも対等な2材以上の材で造ったもの」と定義され、やがて玉眼が多用されるようになる平安末期から鎌倉時代へと続きます。
慧日寺の薬師如来坐像には、彫刻用材としては最も上質とされる木曽天然ヒノキのうち、さらに最良の部位だけを選んだ15センチ角の角材を100本以上はぎ合わせ、その塊から像を彫り出して漆と金箔で仕上げる技法で作られています。
像高約2メートル、台座・光背を含めると約4メートルにもなる仏像となると、木材の他にも表面を仕上げるための漆や金箔といった材料、それぞれの工程を受けもつ技術者や工房の確保など、たくさんのもの・人・場所・時間が求められるのが復元事業の宿命だといえます。

美術史・技法史的な検証と
最新技術の融合によるアプローチ

小島さんとともにプロジェクト運営を担当している教育研究助手の山田亜紀さん(木造彫刻/保存修復)も、プロジェクトを次のようにとらえています。
「かつては写真と塑像の試作で検証していたというプロセスをガラッと変え、CG技術を駆使した3D画像投影などの革新的な手法を編み出す籔内先生のアプローチはとても刺激的ですし、この規模の復元事業に立ち会えるような機会はそうそうないと思うのでとても勉強になります」
「“古ではきっとこうだったであろう”という史学的な要素と、最新のテクノロジーを融合させることで、より精度の高い復元を追求できるおかげで、ここまで真に迫った造像が叶うのだと思うと、良い経験をさせてもらえているなと感じますね」

今の時代に仏像修復に関わることの意味

保存修復研究室では、仏像の復元だけでなく、修復もあわせて行っています。小島さんも山田さんも、藝大学部生の時は彫刻を専攻していて、仏像の修復は大学院に入ってから学んだそうです。
「正直言うと、最初は仏像にも仏教にもあまり興味がなかったんです。ただ、美大の学生は皆、卒業が現実に迫ると、“美術を生業にしていけるのか”という壁に当たります。それまで学んだことと、これからどうやって生きていくかの折り合いをつけることを真剣に考えざるを得ないんです。そういう模索の中で出会ったのが、仏像修復でした。1300年もの間、日本では奥深い技法が継承されているのに、まったく触れないのはもったいないのではないかと考えて」(小島)
「私も同じです。それまでは現代アートの世界にいたのですが、せっかく日本に生まれて日本で彫刻をやっているのに、一度も仏像に触れないのも変じゃないかなと思ったんです。それまで学部では技法について系統的に学んだことはなかったのですが、仏像については一つひとつひもといて学び、習得していくことが新鮮でした」
ご自身の工房も持ち、精力的・学際的に修復・保存に取り組む籔内教授の研究室に入ったことで、彫刻という分野と、自身の生きていく道と、社会的・文化的な価値を一つのものにする機会を得たことを意気に感じているように見受けられました。

思考と感覚を追体験する中で感じる普遍性

「仏像修復というと確かに美術史などの史学系とも近接しているのですが、我々が身を置いているのは、もっとフィジカルでプラクティカルな学問です。作業・制作工程を踏襲するうちに、仏師がどのような段取りや手順で、どんな目的意識や最終到達目標をもって手掛けたのかを追体験する過程で、彼らの真意や願いのようなものを体感し、実技的に解明して再現する。『これでは作りづらい、動かしづらい、だからここで部材をこう割ったのか』とか、『こういう結果に到達するためにここに板を入れて、こういう手順で構造ができているのか』というように実証していくんです」
「その中で得た知見を論文にするのですが、現代に生きる我々が、1000年以上前の仏師・職人の思考や感覚を辿る中で“ピン!”とくるというか、ある種の普遍性に気づく瞬間があるんですよね。これは本当に面白い体験で、この規模・期間で取り組めるからこそ。二度とないかもしれない貴重な機会ですし、この事業に関われていることをとても幸運に感じています」(小島)

仏像ができるまで

おまけ

同研究室で復元事業と造仏に関するインタビューに答えてくださった教育研究助手の小島久典さん(左:木造彫刻/保存修復 Ph.D.)と、山田亜紀さん(右:木造彫刻/保存修復)。小島さんはSIGMAユーザーだったといううれしいサプライズ。愛機のsd QuattroSIGMA 17-70mm F2.8-4 DC MACRO OS HSM|Contemporary30mm F1.4 DC HSM | Artはいつも研究室のデスクの傍らに。「dp Quattroや新しく出た“カミソリマクロ”、70mm F2.8 DG MACRO | Art にも興味あります!(笑)」

【コラム1】
慧日寺とは

慧日寺は平安初期に南都(奈良)法相宗の高僧・徳一(とくいつ)が布教のために下った会津で開かれ、東北地方における開基の明らかな寺院としては最古の建立として知られる。1589年(天正17年)には、摺上原の戦いで会津に侵入した伊達政宗の攻勢により金堂を残して焼失。さらにその金堂も1626年(寛永3年)に焼失するなど、度重なる焼失・再興を繰り返す。ついには1869年(明治2年)の廃仏毀釈により廃絶。その後、復興運動によりまもなく寺号を回復し、広大な寺跡は1970年(昭和45年)に国指定の史跡に。平成に入って磐梯町によって資料館となり、今日に至る。

【コラム2】
慧日寺金堂および薬師如来坐像の復元事業について

平城遷都1300年記念事業のマスコット「せんとくん」の生みの親でもあり、文化財保存学の第一人者である籔内佐斗司教授が監修、制作は同研究室の教員やスタッフが担当。3年がかり、仏像復元の総制作費だけで1億円規模の事業となるため、地元企業であるSIGMAも産官学連携プロジェクトの一員として参画、全体費用の約7割を寄付し支援している。2018年初夏に完成予定。
磐梯町HP「慧日寺金堂の復元事業」

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