バンコク点描
写真者とは、「うつす」者である。
では、「うつす」とはなんだろう。
フォトグラフの場合は、「写す」として漢民族の文字を借りる。ほかに「映す」「移す」「遷す」などの文字も当てられるが、我々の言語はこれらをすべて
「うつす」
と言い表す。
美学者・中井正一は『「見ること」の意味』の中でこう述べている。
<「うつす」という言葉には大体、映す、移す、といったように、一つの場所にあるものを、ほかの場所に移動しまたは射影して、しかも両者が等値的な関連をもっていることを指すのである。>
つまり、「うつす」ということばに込められた本質は、「ここにあるものを、べつのどこかに現出させる」ということである。「現」という漢字も、「うつし世」の「うつし」である。
バンコクに短い旅をした。
私は、見る人であった。網膜にうつしたものを、レンズを通して撮像素子にうつし、さらに今ここで電子的なディスプレイにうつすことを試みる。
だが、中井正一は続けてこうも述べる。
<等値的関連をもっている意味では連続的であるが、二つの場所にそれが離れる意味では非連続的である。>
見たものを「うつす」写真者の試みは、見たものを遠く離れたところに再現しようとして、できないなにかである。
写真は「点描」でしかない。点描とは、「人物・物事の特徴的な面だけを取り上げて簡単に描写すること」と定義されている。英語では “Sketch” とシンプルに表現されるものである。
写真家である幡野広志は著書の中で書く。
<僕は旅先で写真を撮るが、いくら見返してもそのときの感動は蘇らない。風の音、匂い、温度や湿度、すべての感覚を写すには、写真は不完全なツールだ。
写真は五感のうちの視覚だけを使うものだし、それすらフル活用していない。人間の視野は180度くらいあるが、写真にするとかなり狭くなってしまう。
写真を見ただけではわからないことばかりで、だから旅という経験が大切なのだ。>
写真は、連続したものを非連続的に切り取った点描でしかない。私は、見たものの意味を考えない。うつすためにうつす、その行為には自分がない。うつしたものにも解説を加えない。
そして、何度も訪れたこの街に関する記憶もまた、心の中でぼんやりとした点描のような断章となっている。
タイ王国の首都であるバンコクの正式名称は、「クルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロック・ポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシット」という。私は、知り合ったタイ人にこれを一息で言わせるのが好きだ。たいてい、小学校で覚えさせられている。
今までの人生で3回、本気で進路を迷ったことがある。そのうちのひとつは、この街、バンコクで雑誌の編集長になってくれと言われたことだ。断ってしまったのだが、私はこの街を訪れるたびに、ソイと呼ばれる路地のどこかに、違う人生を選んだもう一人の自分が立っているような気がして探してしまう。
バンコクでは、人に道を尋ねるとたいてい、自信満々に一点を指差す。念のため3分後に別の人に尋ねるとこれまた自信満々にまったく別の方向を指差す。これが旅の醍醐味であり、どちらに行くかは自分で決めなくてはならない。旅が人生の比喩なのではない。人生が旅の比喩に過ぎないのだ。
私は見た。そしてうつした。その行為には、自分がなく、説明がない。見ることはそのものになろうとすることである。うつすことは無になろうとすることである。
中井正一は先述の『「見ること」の意味』で語っている。
<見るということも何でもないようだが、理屈をつけてみれば、とんでもないむつかしいこととなってくるのである。>
ちょっと、吹いてしまった。
田中 泰延
1969年大阪生まれ。株式会社 電通でコピーライターとして24年間勤務ののち、2016年に退職。「青年失業家」「写真者」を名乗り活動を始める。2019年、初の著書『読みたいことを、書けばいい。』(ダイヤモンド社)を上梓。Twitter:@hironobutnk